アラフィフ✽
シングルマザー
管理人の “さち” です!
プロフィールにお越しいただきありがとうございます。
ここでは、50歳を迎えた私がどんな人生を送ってきて、なぜWebマーケティングを学ぼうと思ったのかをお話しようと思います。
最後までお付き合いいただければ嬉しいです🌿
基本情報
ニックネーム:さち
生年月日:1973年5月 生まれ
趣味:ものを作る、美味しいものを食べること
家族:私と娘2人(高校2年、大学2年)
ペット:チワプー♂ 1匹
🙈苦手なこと🙈
①ちょっとでも高いところ
「ここまでの高所恐怖症の人は出会ったことがない」とよく言われます笑。小学生の頃は椅子の上にも立てないほど。その日のコンディションにもよりますが、今でもエスカレーターに乗れませ~ん!!!
②水に潜ること
もちろん泳げないのですが、顔を洗うだけでも溺れているように見えるとか…。子どもには「ママはプールに入ると溶けちゃうの」と言って誤魔化してました笑
幼少期~高校時代
私は、富士山の見える港町で生まれました。
両親は小さな商店街でスーパーを営んでいて、いつも忙しそうだった記憶しかありません。兄弟とも歳が離れていたので遊ぶこともなかったし、家族みんなで出かけたこともなかったと思います。
とにかく、家ではひとりで過ごすことが多かったです。
友達に「家がお店屋さんなんていいなぁ」なんて言われることもありましたが、私は『普通の家』が羨ましくてしかたありませんでした。
ただ救いにも近所にはたくさん同級生、同世代のいとこもいたので、寂しさは半分に抑えられてたかな、なんて思います。
小学校の高学年くらいだった思うんですが、仲良かった友達に聞いたことがあるんです。「なんで私と仲良くしてくれてるの?」って。
そのとき帰ってきた答えが「両手を広げてキーン♪ってアラレちゃんの真似をしてグランドを走ってて、面白い子だなぁって思ったから」でした。
私自身はそんなひょうきんなつもりはなくって、ちょっと新しい自分を知った瞬間でした!
中学に入ったころの私は、やりたいことはやる!言いたいことも言う!って結構自由な子でした。(今もです笑)
入学する少し前に『積木くずし』ってドラマが流行ったのと、姉がグレていたことに、カッコいい~と影響を受け「中学生になったら私も不良になりたい!!!」なんて目標を立ててたこともありました。
ある意味真面目ですよね笑。
結果、不良になる大それた勇気は無く、気が付くといじめっ子に物申す、正義感の強いキャラになってました。
それに不良だった姉の噂もあって、先輩からは可愛がられ、すごく過ごしやすい環境で学校生活を送れることができました笑。
*********************
肝心な成績はというと超ど真ん中。勉強は本当に苦手でした。
そもそも勉強を必要だと思ったこともなかったし、あえて嫌いな勉強をする理由がなかったんです笑。この頃には『 調理師になる』という夢もありましたし。
でもこの夢を持てたのって、母のおかげなんです。
母が忙しかったので保育園のころから自分で朝食を用意し、母が適当に詰めるお弁当が恥ずかしくて、小学4年生から必要があると自分で作っていました。
それが楽しくて、小学生ながら専門学校の見学に連れて行ってもらい「絶対ここに来る」って決めたのを、今でも覚えています。
のちに『ん?鶏とか魚とかさばける?怖くない?』と自分に問いかけて、お菓子作りに路線変更しました。
中学校を卒業したら料理の道に進めると思っていたのですが、母に普通に高校だけは行ってほしいと言われたので、「だったら女子高がいいな~、母の母校でいいか!」のノリで高校に進学することに。
だからというわけではないのですが、正直あまり学校での記憶はありません。
楽しかったこともありますが、学校が終わったらほぼまっすぐ家に帰り、バイトして遊びに行くを繰り返し、プライベートの思い出の方が濃く残っている感じです。
ここからは黒歴史なんですが、、、
高校3年生の時、当時付き合っていた彼の影響で、親に内緒で原付の免許を取り、バイト代でスクーターを買い(親の名義で)、それに乗って学校に行き、学生最後のテスト日の朝、通学途中で車に突っ込んでしまいました😱。
意識が朦朧としているのに「大丈夫です!大丈夫です!」と必死に学校に行こうとする私。結局歩くことすらできなかったので、抵抗もむなしく救急車で運ばれてしまいました。
親に怒られることはなかったのですが、先生へは必死に嘘をつく羽目に。骨折もしていたので怪しんではいましたが、無事卒業することができました。
警察の方も「あと少しだから学校には言わないでおくよ」と言ってくれてたので、本当に助かりました♡
専門学生時代
晴れて、念願の料理(お菓子専門)の学校へ入学!!!
親元を離れて、ワクワクどきどきの一人暮らし。
小さいころから何でも自分でやってきたので、生活には全く困らなくて、むしろ自分の城を持てたみたいでパラダイスでした。
そして、学校もめちゃくちゃ楽しい!
勉強に対して劣等感しかなかった私が『好きなことだとこんなに楽しく取り組めるんだ』と実感する毎日でした。
頑張れている自分にどんどん自信がついてくるにつれて、『挑戦すれば何でもできる』そんな強い気持ちが湧いてくるようにもなり、本場フランスで学ぶために留学することを決意しました。
そして約1年間のフランス生活。
といっても、今まで通っていた学校のフランス校なので、周りは9割日本人。その中でも関西出身の人が多く、フランス語と関西弁を学べるという環境でした笑。
それも最初の約5か月ほどのお話。残りは、待ちに待ってた本場の現場研修!学校から遠く離れた地で、アパートを借りてもらい、朝3時からお昼までの勤務でした。
もちろん寂しさはありましたが、その街での研修生は私だけという特別感だったり、冒険をしているような感覚が楽しくてしかたありませんでした。
それでも大変だったのは、やっぱり言葉でした。
仕事はもちろんですが、レストランやホテル、飛行機の予約は、全部フランス語。インターネットも普及していない、携帯もない時代だったので、頼れるのは辞書と自分。電話をすることも多かったので本当に必死でした。
この後、通常でしたら日本に帰り就職をするのですが、、、
フランス生活で料理にも興味がではじめ、居ても立っても居られず「今度は、フランス料理をやってみたい!」と母に国際電話をかけていました。
母はその想いを聞いて、私がフランスにいる間に、全ての段取りをひとりでしてくれました。おかげで帰国と同時に学校に通うことができ、改めて母の凄さを実感しました。
社会人
初めての就職 と 挫折
就職を決める段階に入ったときに、アルバイト先のフラン料理店の社長から「近々、お菓子屋をオープンするから働かないか?」と声をかけてもらったのです。
パティシエとして働いてみたいという想いがあったので、就職することを決めました。
そしてオープンするまでの間、系列店である横田基地内のレストランに勤務することに。米軍基地という異空間では、普段味わえない体験がたくさんできたのですべてが新鮮に感じました。しかし、いつになってもオープンの話がされないことに不信感を抱き始めていました。
同じ募集で先に入っていた先輩に話を聞くと ”オープンの話は白紙に戻ったらしい” と。絶望を感じました。夢を描いていた初めての就職。騙されたという悲しみから抜け出すことができずに、体調を崩しすぐ辞めることになってしまいました。
そこからやりたいことを見失い、ワクワクしていた感覚も思い出せないほど、憔悴しきってしまいました。
それでも東京で生活をしていくにはそれなりのお金がかかるため、チェーン店のお菓子工場と居酒屋のバイトを掛け持ちしながら、何とかギリギリの生活をしていました。
必死に自分を取り戻そうと、レストランやお菓子屋さんのガイドブックを買い、働きたいと思える店を探し続けました。
そして数か月が過ぎたころ、あるレストランに目がとまりました。それは箱根にあるオーベルジュでした。
宿泊施設を備えたレストラン⁉
なんて素敵なところなの⁉
と一目ぼれをし求人募集もしていないのに、すぐ受話器を取り、面接の申し込みをしていました。
刺激に満ちあふれる日々
少し経って箱根のお店から「サービススタッフの空きが出たから、それでも良ければ来てください。来年には厨房に入れます。」との連絡をもらい ”これも経験” と前向きに捉えることができ、お世話になることにしました。
オーナーシェフはメディアにもよく登場する有名人にもかかわらず、自ら最前線で腕を振るっていました。誰しもがそのシェフの背中を必死に追いかけ、いつも刺激に満ちあふれていました。
当時、その業界はまだ指導が厳しい時代だったので、今だったら ”ピーと自主規制音が必要” な場面がいくつもあり、見たくないこともたくさん経験してきました。
そこでも正義感が炸裂し、ダメなものはダメと徹底的に物申してました。でも子供のころと違って『大人の都合』というものを目の当たりにし、社会ってこういうことかって学んだのもこのときでした。
ただその厳しさの裏側には『お客様へのおもてなしを最高にしたい』という想いが感じられたので、辛さや苦しみというよりやりがいの方が強く達成感も半端なかったです。
そういった環境だったせいもあってか従業員の絆は強く、今でもつながることができています。自分の想いを信じ半端ない努力をしてきた素敵な人たちとの出会いは、私の人生にとってかけがえのないものになっています。
地元での新しい生活
家業を手伝うと決意する
漠然とでしたが、25歳ころには地元に戻って親の側にいたいなという想いがありました。母も同じ気持ちだったようで、話し合って家業のスーパーに入ることを決めました。
お店では、料理の勉強を活かし総菜部のチーフとして働き始めました。ただその当時の私には、マーケティングの知識もなかったので、相手への想いよりも自分のこだわりが満載でした。
身体にやさしい安くて美味しいものを作っていればよいのだと思っていました。もちろん喜んでくださるお客様もいらっしゃいましたが、
今思えば、会社全体が個人プレーのように黙々と仕事をこなす状態でした。一つのお店の中に孤立した八百屋・魚屋・肉屋・パン屋・菓子屋・総菜屋が軒を連ねていた感じですかね。私はあまり詳しくは知らなかったのですが、この頃から経営は傾いていたようです。
幸せな家庭を築きたい!
うちの家族は、かなり自由奔放であまり他人にも干渉しない。よっぽど困ったときには助けるけれど、それ以外は自分どうぞというスタンス。
両親の仲も良いほうではなく、いつか離婚するのかな?なんて考えたときもあったくらいでした。姉もバツがついていたので「私は絶対に失敗しない!」と意気込んでいました笑
そんな私にも素敵な人が現れ、29歳の時に交際3年で結婚しました。相手の家族はうちとは真逆で、いつも一緒に行動し常に相手のことを考えている優しい人たち。義母と二人で買い物に行ったり、実家で一日中過ごしたいと思えるくらい甘えられる関係でした。
大切な人を亡くす苦しみ
実は結婚式の少し前に、一緒に暮らしている義姉(兄の奥さん)に病気が見つかりました。すごく苦しい思いをしていたはずなのに、いつもと変わらない笑顔で毅然とふるまってた義姉。手術はしたものの、病状が進行していたのもあって、私から状況を聞くことはできませんでした。
その同じ年、実姉が亡くなりました。子供2人を残して、突然に。本人にとっては、突然ではなく必然だったのかもしれませんが…。
葬儀の当日、ひたすらゲームをしている自分がいました。傍から見たら不謹慎と思うかもしれませんが、精一杯の抵抗でした。地元を離れていた期間も長かったので ”また会える” そんな感覚で、最後まで受け入れることはできませんでした。
そして2年後、義姉も旅立ちました。何もしてあげることができませんでした。ただ日常を普通に過ごし、この瞬間(とき)がずっと続きますように、と願うこと、それだけしか。
まだすべての悲しみを吐き出すことができず、受け入れることもできていませんが、その想いを胸に刻んで生きていくのも自分の生き方なんだ、と今は思っています。
最高のおくりもの
結婚してから5年の間に2人の女の子に恵まれました。お姉ちゃんの方は夜泣きがひどく、下の子が生まれる直前まで抱っこで寝ていました。逆に妹の方は、一度寝たら6時間は起きない子で、いることを忘れてしまうくらい静か。両極端な性格は今でも私を楽しませてくれています!
でも実は出産前に悩んでいたんです。もともと子供が苦手で、自分が親になったらどうなってしまうんだろうって。でもそんな心配はいりませんでした。
私「ママにとって(子供のなまえ)は何か知ってる?」
娘たち「しってる~たからもの~」
私「当ったり~、二人ともだ~いすき♪」
と言葉遊びのように、
いつも愛を伝えられる自分がいました。
ついに限界を迎える
ある日の朝、母は覚悟を決めて会社に向かいました。何ヶ月も前から自分たちの報酬も支給せず、財産もすべてなげうって、それでも何とかしようとあがいていましたが、とうとう限界が来てしまいました。私もある程度覚悟はしていましたが、どうしていいか分からないまま、対応に追われ時間だけが過ぎていったことだけ覚えています。
会社は私たち家族の象徴でした。そしてそれは、それぞれの想いを残し跡形もなく消えていきました。
自分の無力さを痛感した出来事でした。
人生の再スタート
✖ がついた日
時が過ぎ、私は36歳のときに離婚をすることになります。いろんな理由があり、悩み苦しんで出した答えでした。お互い歩みよることもできたのかもしれません。でもこの決断が間違いじゃなかったと思える人生にしていこう、と心に決めました。
離婚してからも、親であることには変わりありません。子供たちには、当たり前のように「パパと一緒に住んでいないだけで、何も変わらないよ。いつでも連絡して会いに行けるよ。」と言い続けてきました。先日、将来について話をしている時に長女が言いました。「結婚するとき、式にはパパも一緒に参列するんだよね!」って。私にとってそれはとても幸せなひとことでした。
新しい私の居場所
離婚を決意したときから ”正社員で働かなければ” と思うようになりました。もともとパソコンを触るのが好きだったため、土日休みの取れる事務職に絞り探すことにしました。
ただその頃はリーマンショックが起きた直後で、就職が困難な時期。私は少しでもスキルを身につけたくて、ハローワークの求職者支援訓練のパソコンコースに申し込みました。その後合格をいただき、訓練に参加することができました。
訓練を始めて2週間がたったころ、一件の求人に目が行きました。「事務員募集!家庭的な職場で働きませんか?」私はすぐさま応募しました。巡り合わせだったのか、なんと就活一社目で内定をいただくことができました。
入社してすぐ社長に言われたことは、
仕事を与えられるのを待つのではなく、自分で考えて行動してほしい。
ということでした。
それは私にピッタリ合う働き方でした。”遠慮しないでどんどん仕事を取っていっていいんだ!” とワクワクでいっぱいでした。他の従業員は休業を取りながらの勤務でしたが、この仕事がない時期にしかできないことをしようと決め、毎日のように新しいことに取り組んでいきました。
夢のようなお城の完成
私はマイホームを持つのが夢でした。それをどうしても叶えたくて、シンママ1年目にして『3年でマイホームを建てる』計画を立てました。
離婚した時の所持金は、現金15万円と子供の学資保険のみ。離婚する前も働いていたので、普通に保育料もかかり、児童扶養手当の支給もありませんでした。
会社も勤め始めて半年程度で、手取りは約12万円。なんとかお金を貯めるために、自分の食事は支給された1つのお弁当を昼と夜で分けて食べる、そんなやり方をした時期もありました。
計画通りの3年で予定していた90%の頭金を貯め、いざ銀行の仮審査へ。条件は1つ、建築会社へ支払いする段階までに残りの10%の頭金を用意すること、でした。その言葉は仮審査が通った証でした。そこからは、土地を購入し家のデザインを決め、とんとんとん、と進んでいきました。
そして、ついに私たち3人のマイホームを手に入れることができました!!!
保証人も親からの援助もなしでやると決め必死にやってきました。ただ周りの支えがなくては成し遂げられなかったこと。だからみんなの愛が詰まっているこの家を守っていこうと強く強く誓いました。
変わっていく自分との出会い
何ものでもない私
みなさんは、自分の“人生の節目”考えたことありませんか??
私は今までいくつかあって、そのたびに目標みたいなものを立ててきました。
そして50歳を目の前にしたときの感じたのは、目標ではなく
『今の私に何が残っているんだろう…』という虚無感だけでした。
仕事もプライベートも、これでいいのかな?と思うことばかり。自分で必死に考えても、ネットをググっても、誰も答えを出してくれない。悶々とする日々を送っていました。
ある人に出会うまでは。。。
それでも進むことのできない現実
ある人というのは、オーダーメイドスーツブランドのRe:muse女社長、勝友美さんです。
2年ほど前から仕事で使えそうなマインドや時短術などを、SNSで検索するようになったんですが、そのときTikTokで目に止まったのが勝さんのチャンネルでした。
共感できる内容はもちろん、自分では気づけなかったことまで、キラキラとして素敵な笑顔で発信されていて、見るだけでパワーをもらえました。こんなすごい人に少しでも近づきたい、そう思うようになりました。
そんなときオンラインサロンの募集をされることを知りました。そして、とても魅力てきな内容に心躍りました。ただ悩んだ結果、入ることはしなかったんです。
その時の自分は、自分を見失うほど落ちきっていて、どうしても何かを始めるというところまで辿りつけませんでした。仮にいま加入したとしても、逆に追い打ちをかける気がしたのです。
自信は取り戻せる
月日が流れだんだんと自分を取り戻し始めたとき、偶然にもまた勝さんのオンラインサロンの再募集があることを知ったのです。今なら大丈夫という気持ちを確認し入会することにしました。
そのときの私は ”視野を広くしていこう” といろんなところに出向くようになっていたのですが、サロンではそれをはるかに超える世界が広がっていました。
しばらくたったある日、急に ”自分を信じなくて誰が自分を信じてあげられるの?” という想いが溢れだしてきました。
もともと自分のことはそれなりに好きで、信じて突っ走っていた時期もあったのに、いつしか日々の生活の中に埋もれてしまっていました。その感覚を取り戻せた瞬間でした。
Webマーケティングとの出会い
オンラインサロンでは、マインド・マーケティング・金融リテラシーを学ぶことができます。そのマーケティングの講師の言葉に、ぐっと引き寄せられました。
その言葉は「残すべき企業を残したい」というものでした。
それは私が自分を取り戻し始めたときに、掲げた目標のひとつでした。Webが強い企業に良いサービスや伝統が奪われていく、その現実を現場で見ていた私に突き刺さりました。
ここでWebマーケティングを学べば、自分だけでなく、もっとたくさんの人の力になれる。そして学んだ先にある未来には、今の自分では見えない何かを手にすることができる、そう思ったのです。
最後に
私はいま、ゼロからWebマーケティングを学び始めています。
それも1年間しっかりとカリキュラムが組まれた実践型のスクールです。
この歳でゼロからで大丈夫!?本当に稼げるようになるの!?と思われるかもしれませんが、私が入ったスクールの卒業生は何人もの方が、夢を実現されています。だから私も疑わず、ひとつずつスキルを身につけていくだけです。
そこで私がたてた目標月収は…
1年後に30万円、2年後に50万円、3年後100万円 です
これからこのサイトを通じて、Webマーケティングで得た知識をどのようにアウトプットし、スキルを身につけていくのか、その成長過程を発信していきます。
ぜひ私が変わっていく姿を、定期的に覗きに来てください。
最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。